関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1600年(慶長5年)11月に石見銀山の接収のために大久保長安と彦坂元正を下向させ、石見の江の川以東を中心とする地域を幕府直轄領(天領)とし、翌1601年(慶長6年)8月に初代銀山奉行として大久保長安を任命した[10](なお、初代奉行については『石見銀山旧記』や『石見銀山紀聞』などで大久保長安とされているが、『石見国名跡考』では彦坂元正であるとされている[11])。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた[12]。
幕府による銀山開発 [編集]
大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。1602年(慶長7年)に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた[13]。
安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば慶長7年(1602年)の運上銀は4~5千貫に達したといわれる[14]。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年(延宝3年)に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所は大森代官所となる)。
銀の輸送
当初、産出した灰吹銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森~粕淵~九日市(美郷町)~三次~甲山~御調~尾道)を整備し、尾道から京都伏見(1608年(慶長13年)に洛中の両替町に移転)の「銀座」へ輸送するようにした。大森町にある熊谷家は幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う掛屋として任命され、現在、この熊谷家住宅は内部が見学可能である。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。
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井戸平左衛門 [編集]
1731年(享保16年)、大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の、井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60歳の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(さつまいも)導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免した(後年、備中国笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている)。