上野彦馬は、日本の写真の祖として知られ、幕末から明治時代にかけて活動した。広く知られている写真では坂本龍馬の肖像がある。
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20世紀前半の状況
芸術写真の時代
日本における芸術写真の始まりは、1905年ごろと考えられる。まず、ゆふつヾ社が1904年に結成され(秋山轍輔、加藤精一ら)、次第に、芸術写真に向かっていった。ゆふつヾ社の流れで東京写真研究会が1907年に結成され、その展覧会である「研展」(けんてん)が開催される中、野島康三ら芸術写真の代表的な写真家が登場してきた。一方関西では、浪華写真倶楽部が1904年に結成され、その展覧会である「浪展」(ろうてん)が開催され、米谷紅浪ら芸術写真の代表的な写真家が登場してきている。1910年代には芸術写真は日本の写真の中では主流化し、野島らが大いに活躍する。
1920年代には、1921年に大阪で写真研究家の上田竹翁とその次男箸尾文雄、写真家の不動健治らがまず「藝術冩眞社」を興し、その後商業雑誌『藝術冩眞』を刊行した。竹翁はピクトリアリスムの理論家、ホースレイ・ヒントンの主著の翻訳者でもあり、彼自身も写真技術に関する夥しい著述、訳書を持ち、1920年に『写真術百科大辞典』[1]という、上巻のみで五百二十五ページに及ぶ大著を著わしている。1910年代にパリに赴いたのち帰国した福原信三も、1921年に竹翁らに遅れて同人誌、『写真芸術』を創刊(1923年まで)し、1922年に写真集『巴里とセイヌ』を刊行した。特に、『巴里とセイヌ』は日本の芸術写真の代表作といえる。福原は他にも、『光と其諧調』(1923年)などを刊行している。
その他、「ベス単派」と(光大派、表現派とも)呼ばれるような、高山正隆、山本牧彦、渡辺淳ら(中島謙吉の『カメラ』『芸術写真研究』(いずれも、アルスから刊行。前者は1921年創刊、後者は1922年創刊)または光大社から出てきた)も芸術写真の作品を制作して活躍した。
なぜ芸術写真が起こったのかであるが、これはもともと写真技術を科学技術ととらえる見方が強かったのにたいし、英国でこれを独立した芸術分野として確立しようとする運動が起こったのを嚆矢とする。絵画を模倣したものであるというのは誤解である。写真技術によって、それまで唯一視覚的な写実表現に携わっていた絵画が、その存在意義を問い直された結果、決して写真に写るものが人間が視覚を通じて認識しているものの実際のあり方ではないという批判が起こった。現実には、写真機が写すのは事物のフォルムだけであり、認知のために重要なものとそうでないものを区別しつつ、対象のイデーを感知する人間の視覚は、むしろ絵画表現によってこそ再現されるという立場もあった。そうした反論も意識しつつ、写真機によって写されたものを改良し、芸術としてより高めようと試みたのがそもそもの芸術写真である。
1923年の関東大震災をも1つの契機として、1920年代中ごろから、都市化、近代化が著しく進行し、日本における前衛美術の展開も活発化し、写真の分野でも、芸術写真の枠を超える先鋭化した表現が技術的にも可能になってきた(芸術写真だけが、唯一取り得る、芸術的な写真表現ではなくなった)。また、欧米においてストレートフォトグラフィやノイエ・フォトの傾向が顕著になってきていた。これらを受け、淵上白陽ら(日本光画芸術協会)の「構成派」を経由して、そのような新しい表現を用いた作品が徐々に出始め、新興写真への道が、開かれていった。なお、日本の写真の主流が芸術写真から新興写真へ移行した後も、芸術写真はなくなることなく、必ずしも太い流れではないが、戦後へと確実に継続している。
新興写真の時代
新興写真の始まりの時期をどこに置くかであるが、1930年代には、明確に定着しているが、上記のとおり、「構成派」の時代(淵上白陽ら)、すなわち、1930年よりはもう少し早く、関東大震災後の1920年代半ばくらいを始まりとすることが考えられる。
以降、怒涛のように、新興写真への動きが始まる。まず、中山岩太が1927年に帰国し、1930年には芦屋カメラクラブを結成する(ハナヤ勘兵衛、松原重三ら)。やはり、1930年には、「新興写真研究会」が木村専一、堀野正雄、伊達良雄、渡辺義雄らにより結成され、さらに、1930年には、浪華写真倶楽部を母体として丹平写真倶楽部が結成されている(メンバーは上田備山、椎原治、平井輝七、安井仲治ら)。
1931年には、独逸国際移動写真展(ドイツ・シュトゥットガルトで開催された「Film und Foto」展の写真部門の日本巡回展)が開催され、日本の写真家たちに決定的な影響を与えている。
新興写真の具体的な作品としては、堀野の写真集『カメラ・眼×鉄・構成』は1932年、小石清の写真集『初夏神経』は1933年(浪展における作品の発表は1932年)、渡辺義雄のシリーズ「カメラ・ウヮーク」は1932年(雑誌『フォトタイムス』に発表)と、相次いでいる。また、1933年には、野島の「写真の女の顔・20点」(銀座・紀伊國屋)という展覧会が開催されており、野島の作品がこの時期には芸術写真から新興写真へと移行していることを示している。
また、雑誌『光畫(光画)』(野島、中山、木村伊兵衛ら)は1932年-1933年の刊行であり、第1号に掲載された伊奈信男の論文「写真に帰れ」は、新興写真を称揚する内容となっている。
新興写真の大きな流れの中、一部は、社会性に富む報道写真として分化していった。残りについては、その写真表現が次第により先鋭化し、1930年代後半にかけて、前衛写真と呼べるようなものになっていき、各地に、そのような傾向の集団が登場してくる。具体的には、以下のようなグループである。
1937年「アヴァンギャルド造影集団」(花和銀吾、平井輝七、本庄光郎、樽井芳雄ら)
1938年「前衛写真協会」(瀧口修造、永田一脩ら)
1939年「ナゴヤ・フォトアバンガルド」(坂田稔、下郷羊雄、山本悍右ら)
1939年「ソシエテ・イルフ」(高橋渡ら)
新興写真はこのように、報道写真や前衛写真へと転化していったわけだが、後者については、前衛に対する政府の弾圧、技巧(技術)偏重による表現の行き詰まり、社会性からの乖離と社会性を要求する外的圧力、戦時におけるアマチュアとしての限界などの問題が生じ、太平洋戦争の中、あえなく散ってしまうことになる。このことは決定的・徹底的なことであり、ごく一部の例外を除き、戦後の前衛的な写真表現との断絶が見られる。
こうして、新興写真は、事実上、報道写真へと解消されていくことになる。
新興写真を代表する写真家として、すでに挙がっていない者としては、植田正治、桑原甲子雄、瑛九、恩地孝四郎、福田勝治、金丸重嶺などがいる。
報道写真の時代
この時期の報道写真の大きな特徴としては、社会性の(極端なまでの)重視と、従来の写真とは異なり、アマチュアを排したプロの世界となっているという点を挙げることができる。 先に紹介した伊奈信男の論文「写真に帰れ」(雑誌『光畫』第1号(1932年)掲載)は、そもそも、報道写真(社会性)優位の主張を内包していたといってよく、この時点にすでに報道写真の時代への萌芽があったといえる。偶然にも、以降の報道写真の時代を牽引する代表的写真家・編集者の1人である名取洋之助がドイツから帰国したのも、同じ1932年であった。
また、報道写真は出版メディアとの連携が必須であり、特に新聞(単なる「ニュース写真」にとどまる)を超えるものが必要であるが、日本初のグラフ雑誌である『アサヒグラフ』は1923年に創刊しており、これが『LIFE』の創刊(1936年)よりかなり前であるという点については、注目しておく必要がある(大久保好六等が活躍)。しかし、写真を中心に据える出版メディアが本格化するのは、以下のとおり、1930年代半ばである。
名取洋之助を中心に、伊奈信男、木村伊兵衛、原弘、岡田桑三らが日本工房を設立したのは1933年、意見の相違を原因とする伊奈、木村、原、岡田ら(すなわち設立メンバーのほとんど)の脱退を受け、1934年に第2次日本工房となり(土門拳、河野鷹思、亀倉雄策、山名文夫、藤本四八らが加わった)、同年に、世界的なレベルの本格的グラフ雑誌として日本では最初のものである、対外宣伝誌『NIPPON』が創刊された(1944年までに36号を刊行。渡辺義雄や堀野正雄の写真も掲載された)。一方、日本工房脱退組を中心に、1934年に中央工房が設立され、1941年に東方社となり(渡辺義雄、菊池俊吉、濱谷浩、渡辺勉、光墨弘、大木実、林重男、薗部澄らも参加)、1942年に雑誌『FRONT』を創刊した。『FRONT』では、ソ連の『CCCP НА СТРОЙКЕ(建設のソ連邦・ソ連邦建設)』(1930年創刊)に範を取った大胆な紙面構成(レイアウト等)のもと、フォトモンタージュの技法などが駆使され、その芸術的・表現的な点からのみ評価すれば、戦前の日本のグラフ雑誌の頂点ということができる(1945年までに、10冊が制作され、うち9冊が刊行された)。
これ以外にも、「青年報道写真研究会」が1938年に、土門、濱谷、藤本四八、光墨弘、加藤恭平(東京工芸社)、田村茂らにより結成されたり、雑誌『写真週報』が1938年に内閣情報部により創刊されたり、1940年には、「日本報道写真家協会」が土門拳らによって結成されたりすることで、戦時に向かって、政府の恣意的な庇護の元、報道写真はその一時的な(独占的)繁栄を謳歌することになる。
その繁栄の中で、報道写真は、新興写真を飲み込んでいき、アマチュア写真家や芸術写真・前衛写真を社会性がないとして排斥していく。しかし、報道写真そのものも、最終的には戦争に飲み込まれ、その自由をほぼ失ってしまう。その理由は、日本における報道写真の「社会性」の脆弱さゆえだけではなく、本質的に、「社会性」には、そもそも、社会にからめとられるという弱点が内包されていることによる。
報道写真のこのような動きは、戦争加担という評価を免れることができないものの、同時に、時勢にあらがうことができず、戦時において生き残るためにやむをえないことであったという評価もできる。ただ、その中で、濱谷浩や土門拳のように、自らその流れから脱落し、別な切り口で社会を見つめる独自の世界へ向かう展開も見られた。
一方、社会性がないとされた写真家は時代に歪められていった。器用さのない者は自己の世界に閉じこもらざるをえず(中山岩太)、器用な者は自己の世界の(部分的な)放棄や転向や分裂(シリーズ「半世界」(1940年)vs.「写真週報」など)を余儀なくされる(小石清)。また、沈黙に向かう者もいた(野島康三)。この中で、安井仲治は、写真の多様性を認めつつ、時代に屈せずに、従来からの姿勢を変えない代表的な写真家だったといえよう(例えば、シリーズ『流氓(るぼう)ユダヤ』(1941年))。ただ、安井も1942年には他界してしまい、このような動きはほぼ途切れた。しかし、その死により、政府のより厳しい追及を受けずにすんだということを考えると、皮肉ではあるが、安井の早い死は、かえって彼自身にとっては幸福だったといえるかもしれない。
不思議なことに、報道写真だけが、戦後に、戦争加担という非難をもってしてもつぶされることなく、太い流れで明確に継続することになる。写真の歴史という観点から見れば、この時期の報道写真については、「戦争加担」という非難が該当するというよりも、報道写真家と呼べないような写真家(報道写真家から言わせれば、「社会性」の欠如した写真家たち)を排斥したこと(多様性という芽を摘んでしまったこと)に、より多くの問題があったとも考えられる。そして、このような「排斥」は、やや形を変えて、戦後もある期間継続することとなる。